當来山 龍華院

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十牛の庭園GARDEN

平成を代表する作庭作家の一人 小山おやま 雅久つねひさ 作庭

十牛図に見立てた庭園。本来の自己(牛)を探し求める旅。悟りへの道程。

梅原猛氏の言葉を借りれば、禅は一切の偶像を否定する。わが心が仏である。心以外に仏はないのである。なぜ禅芸術があるのか、それは心の比喩としてあるのである。曰く言い難い禅の心を象徴によって表現しようとしたところにすべての禅芸術がある。その一つが「十牛図じゅうぎゅうず」である。

※十牛図とは、禅において悟りに到る過程を分かり易く十枚の絵で解いたもので、中国の廓庵(かくあん)和尚によるものです。

十牛図概要・説明十牛の庭園
01. 尋牛(じんぎゅう) 自分で自分(本来の自己・仏性ぶっしょう)を探し始める。 続きを見る
本来、人は仏を自分の心に持っているのに執着するために気づかず探し回っている。
回遊隠寮北庭
02. 見跡(けんせき) 自分の中によい資質が必ずある。続きを見る
仏教の教えに触れてようやく手がかりをつかみ、あるがままの自己こそが仏である、生あるもの全て、さらには自然の摂理とも自分が一体であることを知識として知った段階。
03. 見牛(けんぎゅう) 全てが心理の力で動いている。続きを見る
本来の自己の姿をわずかながら初めて見た段階、それまでと違い目に見えるもの、聞える音など、すべてに仏の働きを感じられるようになり、日常の中にこそ禅があることに気づきます。何を見るにしてもそれになりきること、同化することの大切さを理解する。本来の自己に向かい合っている段階。
04. 得牛(とくぎゅう) 自分を自分のものにする努力。続きを見る
まだはっきりと分からない本来の自己の正体を自分のものにするには努力が必要です。全てはいんえんのサイクルで動いています。例えば、誰かと知り合い(因)、感情が働き(縁)、その結果、愛するようになるか憎むようになるか(果)は縁の働き次第です。「今、ここで、自分が」悟ろうとするもので、臨済義玄は「即今目前そつこんもくぜん」と言った。
05. 牧牛(ぼくぎゅう) 自分の願いを努力で実らせる。続きを見る
厳しい修行を積んで、本来の自己を取り戻したつもりでも、煩悩ぼんのうは折に触れて頭をもたげます。ですから禅では悟りを開いた後の修行を重んじ「悟後ごごの修行」という。悟りの形さえ見えない私たちには遠い世界のようにも見えますが、心が洗われる世界に歩み出すには、しっかりした決意が必要で、そのモットーが「四弘誓願しぐせいがん」。
06. 騎牛帰家(きぎゅうきか) 悟りとは自分を取り戻すこと。続きを見る
本来の自己とそれを求める自己が一体になったため、求めようと努力しなくても仏性は自然と深まり、身も心も軽く安らかで自由な境地。達磨は悟る方法に二つの方法と四つの修行があると説く。二つの方法とは経典から学ぶ「理入りにゅう」と修行で悟る「行入ぎょうにゅう」でこの行入は四つの行から出来ている。行の最初を「報冤行ほうおんぎょう」といい、冤は恨み・あだの意味で恨みに報いる行、つまり恨みがあっても耐える行である。感情で一番根強いのが恨み(恨めしやー)怒りは時間がいやしますが、恨みは時間と共に根をはる。この行が牛の背の牧人のようなゆったりした心になるための最初の修行である。(07.に続く・・・)
07. 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) 本来の自分になりきる。続きを見る
二番目が「随縁行ずいえんぎょう」で今の自分は全て縁によって生きている。いい縁もあれば、悪い縁もある。縁の世界から抜け出せない。だから目先にとらわれず、ゆったりと自然な気持ちで生きるという修行である。三番目が「無所求行むしょぐぎょう」は何に対しても執着しない。四番目が「称法行しょうぼうぎょう」で正しい教を実践する修行である。坐禅は「安楽の法門」。坐禅を通して何ものにもとらわれない本来の自己になれるのである。迷うはずのない仏に悟りは必要もありません。悟ったという気持ちも捨て去るのである。
08. 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) 牛も人も忘れ去られている。あるのは円が一つだけ、迷いも悟りも超越したとき、そこには絶対的な「くう」がある。続きを見る
人は「私が・・・」という気持ちが先に立つ。この自意識が無い状態、無我の境地に入る。自我意識を捨て、空の世界に遊び、さらにそこから自分の姿をも消し去ったのが、この空一円相である。
坪庭
09. 返本還源(へんぽんげんげん) あるがままの自然が広がる。続きを見る
本に返り、源に還り、時間も空間も超越し、万物が一体となったところ、全てが帰っていくところが根源である。そこには青い水、緑、赤い花など、ありのままの自然が広がっている。煩悩や分別(心の働きで眼や耳から入ってきたものを判断しランク付けたりする)をなくした純粋な人は、自分は眼前に広がる自然の一部であり、自然と一体となっていることを感じ取れる。そこには人間と自然などと比較する考え方はありません。ただ、自然の世界がありのまま広がっているだけである。
境内庭園
10. 入鄽垂手(にってんすいしゅ) 知らないうちに心が伝わる。続きを見る
てんとは人々の行き交う町で、垂手すいしゅとは釈迦の相で、何の形もとらないのに人々はその教に自然に教化されたことを示している。自由自在な境地を持った禅者が人々と接し人々が救われることが仏法の究極の目的である。禅の特徴は「不立文字ふりゅうもんじ」、「教外別伝きょうげべつでん」、「直指人心じきしにんしん」、「見性成仏けんしょうじょうぶつ」に集約される。
本堂
garden02龍門瀑

龍門瀑

禅宗庭園に多く造られてきた龍門瀑は登竜門の故事になぞらえた滝で、命を賭して修行する喩えとして、僧堂(専門道場)の雲水(修行僧)の心構えを説いたものである。

龍門瀑の構成は、三段の滝と、鯉魚石りぎょせきという鯉が滝を登る姿をモチーフにした細長い石がある事が特徴である。龍門瀑の石組みは様々で、鯉魚石が滝の途中や滝の離れたところを捉える場合もあり、それによって滝登りの鯉の状態が異なる。その他、悟りの知恵の象徴として観音石などを伴う場合もある。

鯉魚石りぎょせき
鯉に見立てた石
水落石みずおちせき
滝水に見立てた石
遠山石えんざんせき
観音石
碧岩石へきがんせき
碧眼は達磨のこと
坐禅石ざぜんせき
池中に配する場合もある(石に坐して仏を見つめる)=禅宗庭園は修業の場

牛を尋ねて

達磨さんを初祖とする禅は自分に対して「自分とは?」と問いかけるのだと理解しております。その悟りに到る過程を分かり易く絵解きしてくれたのが中国の廓庵かくあん和尚の十牛図じゅうぎゅうずです。探し求める「自分とは何か」を牛に例えて、問いかける自分が牛を尋ねて、相剋そうこくしながら心の旅をするのです。

十牛図は第一図 尋牛じんぎゅう、第二図 見跡けんせき 、第三図 見牛けんぎゅう・・・と続き、第八図 人牛倶忘にんぎゅうぐぼう円相えんそうとなり、悟りに入ったところと思われます。詳しくは方丈さん(住職)にお尋ね下さい。

隠寮いんりょうの北庭はお庭にあった石と樹木を使わせていただきました。台湾産の石灰岩を三石並べ、松島とも三門(空門・無相門・無作門)ともお考え下さい。十牛図の見牛と見立て、牛の石を一石加えました。龍華院の作庭は庭に対する私の尋牛でもありました。

小山庭園設計室 小山雅久

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寺院名称
臨済宗 妙心寺派 當来山 龍華院(とうらいざん りゅうげいん)
拝観時間
土日祝のみ 9:00~17:00 (拝観受付16:00まで)
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拝観料
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所在地
〒981-3411 宮城県黒川郡大和町鶴巣大平郷ノ目58 地図を見る
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